おじさんたちの富士ヒルのレースレポートや感想文はだいたい読み終わったかな。ほとんどはレース前日までが楽しいね。当日の様子は金太郎アメかってくらいみんな同じで超つまらない。まあ全然違う内容だったらそれはそれでカオス。
私はただの八つ当たりや思考放棄には留まりたくなかった。この文章における弱さは実に私らしいと思っているし、これまた実に私らしく理性的だと感じるよ。
VO2Maxとかパワーウェイトレシオ(W/kg)の世界にいたからこそ、ヒルクライムがどれほどあたおかな世界かを知っている。
それに、そんなあたおかな世界に突っ込んでいく人たちを「身勝手で贅沢」と突き放さないと、私は独りでいつまでも底なしの沼にあえぐことになる。このダサさというか醜さというか、それこそがこのブログの真骨頂ではなかったか。
仕事や育児に「捧げる」という表現は、ただの不満を超えて、それなりの覚悟でもある。と書くと自己弁護の極みではあるが、優先順位が違うのは間違いない。朝から晩まで自転車に乗っている場合じゃないのは確かだ。
そもそもの話、朝4時に起きないのも優先順位の話。私は社会人であり、会社員である。「仕事」や「家事オペ」を破綻させないためのリスクマネジメントであり、大人として真っ当至極な話だろう。
朝3時起床で3時間80キロを走っていたのは娘が1〜2歳の頃の、週末の話である。業務もコロナ禍前から完全在宅勤務だったし、楽なものだった。今思うとあの真っ暗な河川敷を、呪詛を呟きながら3.0W/kg走していた頃が一番楽しかったかもしれない。
近所のマンションで中古物件として売り出された部屋が拙宅と同じマンションブランド・同グレードの同じ階数・部屋数で一億二千万円の値付けだったから、私も億ションと謳っていいですか。駅前タワマン角部屋最高だろ。
自転車部屋とか2匹の猫とかは自転車趣味を失いつつある私の心の拠り所。人によっては空虚な話だが、それこそ価値観の違いなんじゃねーの。
まあ結局のところ、胸に渦巻くドロドロした未練をインターネットの片隅で自分のブログで文字にして吐き出す行為は、私の精神の健康を保つため、極めて現代的で健全なアプローチだろう。これを他者のところでぶち撒けたら極めてやべー奴だが、私はそんな気はサラサラない。
呪術廻戦で伏黒甚爾が若き日の五条悟と戦った最後に「これでいい」と呟いた。あれと同じだよ。私の諦めや思考放棄ではなく、少し、いやまあまあの葛藤の末に「今の生活の主役は自分ではない」という現実を厳かに受け入れた証拠だろ。
だとしたら、だとしたらだ、私の呪いであるこの執着心から解放されることはあるのだろうか。伏黒甚爾は息子の伏黒恵の存在があった。自転車人としての私は余命いくばくもなく、静かに死んでいく。
※いや現実的には退院日間近ではあるが。
その先にあと10年もすれば成人する娘の存在があるならば、親として時間と金をかけてやった結果として何か満たされた境地に辿りつけるだろうか。
分からない。私の仙境は、まだ何も見えてこない。
















