やさぐれメモ

やさぐれたアラフォー男性の自由帳

パワーウェイトレシオの向こう側にあるもの、いや、何かあるのか?私には見えないよ

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おじさんたちの富士ヒルのレースレポートや感想文はだいたい読み終わったかな。ほとんどはレース前日までが楽しいね。当日の様子は金太郎アメかってくらいみんな同じで超つまらない。まあ全然違う内容だったらそれはそれでカオス。

私はただの八つ当たりや思考放棄には留まりたくなかった。この文章における弱さは実に私らしいと思っているし、これまた実に私らしく理性的だと感じるよ。

VO2Maxとかパワーウェイトレシオ(W/kg)の世界にいたからこそ、ヒルクライムがどれほどあたおかな世界かを知っている。

それに、そんなあたおかな世界に突っ込んでいく人たちを「身勝手で贅沢」と突き放さないと、私は独りでいつまでも底なしの沼にあえぐことになる。このダサさというか醜さというか、それこそがこのブログの真骨頂ではなかったか。

仕事や育児に「捧げる」という表現は、ただの不満を超えて、それなりの覚悟でもある。と書くと自己弁護の極みではあるが、優先順位が違うのは間違いない。朝から晩まで自転車に乗っている場合じゃないのは確かだ。

そもそもの話、朝4時に起きないのも優先順位の話。私は社会人であり、会社員である。「仕事」や「家事オペ」を破綻させないためのリスクマネジメントであり、大人として真っ当至極な話だろう。

朝3時起床で3時間80キロを走っていたのは娘が1〜2歳の頃の、週末の話である。業務もコロナ禍前から完全在宅勤務だったし、楽なものだった。今思うとあの真っ暗な河川敷を、呪詛を呟きながら3.0W/kg走していた頃が一番楽しかったかもしれない。

近所のマンションで中古物件として売り出された部屋が拙宅と同じマンションブランド・同グレードの同じ階数・部屋数で一億二千万円の値付けだったから、私も億ションと謳っていいですか。駅前タワマン角部屋最高だろ。

自転車部屋とか2匹の猫とかは自転車趣味を失いつつある私の心の拠り所。人によっては空虚な話だが、それこそ価値観の違いなんじゃねーの。

まあ結局のところ、胸に渦巻くドロドロした未練をインターネットの片隅で自分のブログで文字にして吐き出す行為は、私の精神の健康を保つため、極めて現代的で健全なアプローチだろう。これを他者のところでぶち撒けたら極めてやべー奴だが、私はそんな気はサラサラない。

 

呪術廻戦で伏黒甚爾が若き日の五条悟と戦った最後に「これでいい」と呟いた。あれと同じだよ。私の諦めや思考放棄ではなく、少し、いやまあまあの葛藤の末に「今の生活の主役は自分ではない」という現実を厳かに受け入れた証拠だろ。

だとしたら、だとしたらだ、私の呪いであるこの執着心から解放されることはあるのだろうか。伏黒甚爾は息子の伏黒恵の存在があった。自転車人としての私は余命いくばくもなく、静かに死んでいく。

※いや現実的には退院日間近ではあるが。

その先にあと10年もすれば成人する娘の存在があるならば、親として時間と金をかけてやった結果として何か満たされた境地に辿りつけるだろうか。

分からない。私の仙境は、まだ何も見えてこない。

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富士ヒル追悼記事を自己批判してみる

あのひどい自転車ブログ記事を読んで、自分で感想を書いてみる。あれを読んで嫌悪感を覚えた人たちの気持ちを代弁してやる試みだ。まあ、あれだ。マッチで火をつけて火事だ!と叫んで、用意していた水で消火活動をするやつだ。

ちなみに浪人生の夏に受けた駿台模試の現国で偏差値37を叩き出した私だからあまり期待しないように。それでも書く時間はたっぷりあるからさ。

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いや改めて読むと本当にひどいな。選択ミスの正当化。他者を過剰に下げて自身を悲劇の主人公化する自己防衛と傲慢さ。

富士ヒルに挑戦する中年男性たちを「十分な金と時間を持つ」と決めつけて、仕事や家庭と折り合いをつけたり、睡眠を削って努力したりしている可能性を無視。彼らの純粋な挑戦や祝福を「身勝手で贅沢」「内輪の大騒ぎ」と冷笑する浅ましい目線。

人生の根幹を成している自分の仕事や家事・育児を「費やしている」「捧げている」と書く犠牲者的な表現。それでいて朝4時に起きて乗らない理由を「優先順位」と言い張って、熱量を失った自分から目を背けている点。

さらには駅前タワマン、広い間取りと自転車部屋、外車など、持ち物を並べて「自分は恵まれている」と必死に言い聞かせるダサさ。

極めつけは「一周回ってこれでいい」という思考放棄。インターネットで他者を巻き込んで不快感をぶちまけて、最後に「スッキリした」と自己完結する無責任さ。本当にひどい。

思い通りにならない現実への八つ当たりと、小さな自尊心を守ることだけに拘泥しただけ。随所に見られる「甘え」と「歪み」。

 

最高だな。これぞブログの醍醐味だろう。25年も前からブログを書き続けてきた私の成れの果てが、これだ。最高だろう。だってここは穴なんだから。「王様の耳は、ロバの耳」と叫ぶ穴なんだから。

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難しく考えなくていい。自分のために書くのがいい。そういう文章に、私は飢えている。

次は富士ヒル追悼記事を擁護する文章を書いてみたい。誰のためにって?誰得だって?私のためだよ。

渇いて、くすぶる

病院のベッドで考えている。20歳前後までに青春できなかった人が、30代40代50代にもなって(もちろん60代70代80代も含めて)"青春"しようとすることは、何も悪くない。ただイタいだけだ。

でも、いいんじゃないかな。格好悪くても、それで人生が明るくなるのであれば。どんどんやったらいい。

というのも以前お会いした取引先の方が、まさにこの考えに至りそうな様子だったからだ。職責はかなり上の方だが非常に気さくで、私のような雑魚キャラにも態度を変えずに紳士的に接してくださる。

8年前にふと思い立ち、スペシャライズドのS-Works Vengeを中古でご購入されたのだそうだ。ショップから自宅までの50kmを初ドロップハンドル&初ビンディングで事故なくご帰宅されたというのだから、すごい。

それが今は全く乗っていないと打ち明けてくれた。落車して大怪我をして以来、もう何年も乗っていないのだそうだ。落車して周りに迷惑をかけて、そうしたら乗る気が失くなってしまったのだという。

「中学生の息子がもう少し大きくなったら譲ってやるつもりです。」

VengeといえばスペシャのTarmac SL7と並ぶ名車で、世界中のサイクリストの憧れではなかったか。なんて恵まれたご子息であろう。

「ロードバイクは楽しかったですよ。スピードはグングン出るし、数十km先まで行って帰ってくるなんて普通の自転車じゃ無理じゃないですか。」

私は相槌を打つ。取引先の方が話を続ける。

「でも最後の方は河川敷しか走ってませんでした。それも自宅から車に乗せて、車を河川敷に停めて乗るんですよ。もう車道を走るのが怖いし、そういう事ができない立場でもありますし」

そして、こう付け加えた。

「もう青春する歳でもないですしね」

それは、私は嘘だと思った。負け惜しみだ。青春したいだろうに、環境がそれを許さない。なんと切ないことだろう。

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私はしたいよ、青春。学校を出てから今までそんなこと微塵もなかったけど、ここ最近はちょっと違う。

この10年間で何度も書いてきたけど、私は青春をやり尽くした。多少の悔いはあるけど学生時代にはおおむね満足している。

※悔いというか、もちろん大人の目線で振り返れば「もっと優しい人間でありたかった」とかもっとうまくやれたのに、という思いは当然ある。

勝手にアジア代表みたいな看板を掲げて世界に挑戦して、世界一とやり合って身の程を知って、でも最高に楽しかった。下級生には辛い思いをさせたけど、それはそれで別問題。

入院して、今までの人生を振り返って、残りの人生に思いを馳せて、何かもう一度、大きな花を咲かせてみたいように思う。

英検準1級とかやりたいな。日高屋にふらっと入って一度に3,000円くらい使うのもいいな。バーガーキングの食べ放題プログラムに参加したりとか、自転車ならブルベみたいなロングライドとか。マラソンは、もういいや。

なんだろうな、誰かから評価されるのではなく、自分の気の済むまで何かをやりたいな。そう思ってもなかなか実行できないのが悲しいね。金はあっても時間がない。気持ちに余裕がない。

できない理由を作るな、って?そういう幼稚なことを口にする人とは価値観が合わないな。

落車して死ぬかもしれないロードレースを頑張ることとか、レースレポートを書く・読むこととか

今日書く内容は決して特定の誰かについて述べているわけではなく、あくまでも一般的な話である。暇つぶしに書き溜めていたものを2,500文字にまとめて吐き出す。

趣味などというものは、所詮は暇つぶしである。命を懸けてまでやるものじゃない、というのが私の持論だ。趣味に"命を懸ける"のは学生までの話。もちろん異論は認める。

マラソンはどうだろう?2022年にマラソン依存者(当事者はまさかのNHK記者)の特集があった。雨天でも走り出してしまう様子に私はドン引きしてしまった。

でもマラソンブログを徘徊すると「雨でも濡れずに走れる高架下のコースを見つけました!」みたいな人は少なからずいらっしゃって、まあマラソン界隈は靴さえあればスタートできるという点でハードルが低い分、相対的あたおかな人も多いんだろうな。

※トレッドミルとロードバイクのローラーとで自宅への設置ハードルはどれくらい違うだろうか?

 

では、ロードバイクはどうだろう。実は私はロードバイクはレース勢の存在について速度領域における交通事故のリスクを看過できない点で、その相対的あたおか度がマラソンどころではないと思っている。マラソンと比べて、よくて酷い擦過傷、SNSでの落車自慢(?)は鎖骨・大腿骨骨折、後遺障害や亡くなる確率はマラソンよりも高いように思う。

レースになると時には時速30〜40キロという速度で数十人が団子状態になって走るのだ。ウェアはピタピタな薄手生地で、プロテクターの類は基本的にない。せいぜいプラスチックと発泡スチロールのヘルメットくらいか。

そのヘルメットだって、20年前まではゴールスプリントの時になってからチームカーからアシスト選手経由で配られて装着するレベル。これは自転車レースのアニメ映画『茄子〜アンダルシアの夏〜』にその描写がある。

当時のヘルメットは今ほど軽くはないだろうし、通気性も悪かったのだろうけど、無着用はおよそ正気の沙汰じゃない。日本で原付のヘルメット着用が義務化されたのは1986年だという。比べるのは適当ではないが、国際自転車競技連合(UCI)は日本の原付から20年近く遅れたわけだ。

ロードバイクの斜行が原因で死亡事故が発生した荒川中流域の貯水池『彩湖』でのサンデーライド事件からまだ10年少々だ。まさかみんな忘れてないよね?その主催ショップもつい数年前に閉店したが、私は戒めのために、たまに思い出すようにしている。

 

で、ようやく本題。

ちょっと前にロードバイクのモチベーションが話題になったらしい。この手の話題は定期的に繰り返されるわけだけど、別に何もおかしくはない。むしろトップ選手でもないのに、数十年に渡ってパワートレーニングを続けられることのほうが稀有である。

ここでブルーピリオドの一場面を紹介する。憧れの先輩が専業作家(プロ)にならないことを知った天才主人公(東京藝大現役合格)が高校の美術部顧問に吐露して、顧問がそれに答える場面。

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現時点での私見を述べておく。私にとってロードバイクは生涯スポーツである。生活に支障をきたさない、無理のない範囲で楽しめる「持続可能な趣味」としてのあり方を探っている。

プロ・元プロ・アマチュアがどんなに速く走れても、ロードバイク選手として経済的な独立を果たすことは難しいと思う。明確な根拠はないが賞金という泡銭しか想像できない私には、引退後の定収入が思いつかない。

専業サイクリストになって日本選手権で優勝できたとしても、そのフィジカルとタイトルを以て向こう数十年に渡って年間800万円程度(金額は適当)の安定的な収入を得られるかは疑わしいように思う。

ましてや、プロになれるわけでもないアマチュアが、仕事や家族を二の次にして、いやここではあえて「犠牲にして」とは書かないが、毎日過酷な高強度インターバルや過度なTSS稼ぎを続けていけば、いずれ肉体か精神か、あるいは仕事か家庭のいずれかが崩壊するだろう。

その点で私の思う「月に数回、乗れる範囲で乗り、乗れない時期があっても構わない」とするスタイルには、モチベーションの消失などという概念は存在しない。人生において身体が動く限り、長く自転車に乗り続けるための生存戦略だと思う。異論はもちろん認める。

問題は乗れない時期がいつまで続くのか、その出口が見えないことである。

ここで、5〜10年前に私がよく購読していたうちで、更新停止してしまったブログをさらってみたい。「こちらの存在を認知されたくないので読者登録をしない」という私の拗らせは脇に置く。

※もちろん続いてる人もいる、体感で半分くらいは残っていらっしゃる。ただし自転車をやめてマラソンに転向した人はまあまあいる。

敬称略で言及すると、つよポタミア、ゆとリーマン、ご機嫌を手に入れた、フローな私にしてくれ、みそじてんしゃ、めざせチマコッピ、このあたりのロードバイクブログは楽しく眺めていた。NICOの人たちも一時期はてなブログに何人かいたけど、あの事故の前後でみんな更新が止まったり消えたりしてしまった。

その他のロードバイクブログのいくつかは、自転車を降りてマラソンをやっていて、懐かしく思いながら見ている。私も一時期はランのボリュームが大きかった。

レースレポートならnoteに上がってくるけれど、おじさんたちが書くあの"レースレポート"ほどつまらない物はない。だって誰が書いても同じなんだもん。パターンが決まっているから、ご本人と参加者しか楽しくない。もとよりそれ以外は読者ターゲットでないからまあいいんだけど。

チームメイトと乗用車で前日に現地入り。たらふく食べて早めに就寝。早朝・未明に起床して軽めの朝食と「軽量化」と嘯く排便報告。スタート地点までアップがてら自走して、レース展開はうんぬん。「そんなこんな」を多用してグダグダ、最後は「力を出し切れなかった/力を出し切ったがこれが現時点での実力」で締めくくる。お疲れ様。

いいよなあ。私も書きたいよ。そんな滾る、迸るパトス、熱いモチベーションを持ってみたいね。

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いかんなあ。もう先に、次のステージに進まなければいけないのに。

 

富士ヒルに出たくても出られない私を追悼する

富士ヒルの感想文はどこに行ったら読めますか?なんていうのは昔の話。読みたくない、「富士ヒル」なんて言葉は見たくもない。

パワーウェイトレシオ(W/kg)が最高で3.8W/kgあった全盛期と現在のギャップがキツい。木曜定例のミートアップで90分間ずっと3.0W/kg走ができていた頃の体力やパワーを知っているからこそ、今の走れない自分との落差に心が痛む。

国内の様々なサイクルイベントが自分には関係ないことだと分かっていても、色々参加したことをたまに思い出してしまい、この現実をなかなか受け入れられない。

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5年前なら「ヒルクライムは苦手だけど富士ヒルなら100分くらいで行けるかな」とか「こうやって毎日ガンガンZwiftしていれば榛ヒル力押しでギリギリ、60分切りに挑戦できるかな」とか。

そんなふうに書くと一生懸命やっている人からイラッとされるんだろうけれど、まあ富士ヒルなんて私が普通にやれば2時間は切れるだろうとか思ったこともあった。

そして私はもうそういう戦いから降りた、人生次のステージに進んだのだと思うようにしている。

仕方がない。自転車に乗っている場合じゃない。奥さんと二人でフルタイムで仕事をして金を稼ぐ。奥さんと二人で家事オペを回して家庭を安寧に導く。奥さんと二人でまだ未熟な子どもの面倒を見て人類の未来を託せるように育てる。

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富士ヒル出走者の30〜40代のおじさんたちの熱狂を見るのは、つらい。彼らの姿を目にすると、もうあの頃のようには走れない自分を強制的に突きつけられて、つらい。頭では理解できていても、苦痛だし、強い不快感を覚えてしまう。

まだ存分に動く身体と体力を持ち、富士ヒルに挑戦するのに十分な金と時間を持つおじさんたち。羨望と嫉妬が混じった目で見てしまう。そんなおじさんたちの活躍が、見に行こうとしなくても色々と視界に入ってきて悔しくさえある。そういう時はインターネットから離れる。

「体力と時間」という資源。それを私は毎日仕事・家事・育児に費やしている。それは自分が選んだ結果としての、自分が決めた決断として、それはそれで正しいことなんだ。もう正しいとか正しくないとかではなく、そういうものなんだ。

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自分のための時間が欲しい。その時間をローラーを回す時間に使える体力も欲しい。そのための金と心の余裕も欲しい。家事オペを週5でハウスキーパーに任せて得る自分の時間。病院のベッドで点滴を2つも受けながら寝たきりの毎日、ではなく。

週に2回も3回も自転車に乗れること。1回で1時間以上も乗り続けて、好きなだけ減量して、たまに機材に投資して、人生を賭けるかのように学生みたいに熱狂的に没頭できるおじさんたちが、羨ましい。「XXXXリングを取れたら死んでもいい」とか青春小説のようにうそぶいてみたい。

いいよなぁ。羨ましいなぁ。それだけの金と時間と心の余裕が許されている環境のおじさんたちが羨ましい。私の人生はとうの昔に主役が入れ替わっているから。

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自分の生活の大半を子どもに捧げて、親としての責任を果たしている立場にいると、趣味に全てを突っ込んでいるように見える彼らの姿はとても身勝手で、贅沢で、恵まれているように映ってしまい、羨ましさが不快感に変わってしまう。私は化け物だ。

私は人生において「仕事・家事・育児」という重要なタスクだけを毎日回している。サイクリングと称するたかがひとつの趣味なだけであり、その成果で大騒ぎして、内輪で「すごい!」「おめでとう!」「努力が報われましたね!」と祝福されるヒルクライマーのおじさんたちを見て「よかったですね」という素直な気持ちと、言葉に表せないある種の嫌悪感も湧く。

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なんというか、私はこの嫉妬に似た不快感を大切にしたい。なぜなら、これは今の私が限られた環境の中で目の前にある生活、家族や仕事を最優先にして必死に生きている証拠だから。

人生のステージが自転車から家族との生活に移って久しい。もうZwiftとかスプラトゥーンとかで遊んでいる余裕はなく、いや、余裕というよりも優先順位が変わったんだ。遊んでいる場合じゃない。

子どもの宿題を見たり、明日・来週の持ち物チェックをしたり、週末に子どもとお菓子作りをしたり平日おかずの作り置きをしたり、水回りの掃除をしたり、部屋中にダイソンをかけたり。

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なんだ、私だってそれなりに恵まれた環境じゃないか。アホでも元気な子どもがいるし、調理するに十分な広さ・設備のキッチンがあるし、ダイソンをかけるのが手間に思えるくらい大きなマンションに住んでいる。そもそもダイソンが必要なのはかわいい猫が2匹もいるからだ。ローラーを2台置いた自転車部屋だって作った。

それでも私の欲は留まるところを知らない。十分すぎる住環境で、自分史上それなりに豊かな生活を送っているのに、それでもまだ足りない。心の何処かで自転車を乗り回したいと願っている。ベンツEクラスのステーションワゴンに自転車を積んで丸一日、遠くに遊びに行きたい。人の親として最低だな。

それでも朝4時に起きてローラーを回したいか?と問われれば、否。そんな早起きをするくらいならもう1〜2時間しっかり眠って、仕事に備えたい。前にも書いたように、人生における優先順位が違うのだ。

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若い自転車乗りは身体が動くうちに遊んでおくのがいい。私は20〜30代をキャリアアップと合コン、そして結婚生活に費やした。自転車は23歳から山サイでスタートしてロードバイクは25歳からやってきたが、もっと打ち込んでおけばよかった的な後悔は全くない。それは私の半生が充実していたから。

つまりは、ないものねだりだ。自転車ばかり乗っていたら、やれ正社員になりたい大企業に勤めたい金が欲しいタワマン住みたい彼女欲しい子ども欲しい幸せな家庭を築きたい自転車部屋欲しい猫飼いたいetc.

だから一周回って、これでいい。もう何周も回って私はバカなんだろうな。これでいいんだ。生きていく金さえあれば、まずはそれでいい。

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書いてスッキリした。

私のような走れない中年のみなさんは、イケおじイケおばサイクリストを眺めよう。金にも心にも余裕がある人は嫌味・外連味が無くて、見ていて気持ちいいよ。心が洗われる。

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みんな働いてる?私は働いたり休んだりしているよ

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美しい仕事

流行りの"プロサイクリストの定義"だとか、社会人が挑戦する富士ヒルとその高齢化問題とかもあるが、今日書きたいのはそれらではない。

「美しい仕事」という言葉に出逢ったのは、10年以上も前のことだ。それについて書いたのが2022年、もう4年も前のことか。

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前職で仲が良かった同僚は世話になった役員の「美しい仕事をしなさい」を座右の銘にしていた。拙くてもいいからブラックボックスを作らない。誰が見ても分かるように整える。いつ自分が消えても支障がないように。それが仕事の矜持だと言っていた。

それを聞いて私も真似をし始めて、10年が過ぎた。

毎週の上司とのタッチベースで

  • 今、何を目的として何を進めていて
  • 何が原因で何が難航していて
  • いつまでに何をやりたい
  • そのために誰の力を借りたい
  • だから口を利いてほしい

みたいなのを全部共有してきた。商談もOutlookのスケジューラーを使い、全て上司・同僚に見える形で取引先にも飛ばしている。

ブラックボックスを作らない

実は先週から体調不良で入院している。歳は取りたくないものだ。身体は劣化の一途を辿っている。だが今日書きたいのは憂いではなく、「美しい仕事」についてだ。

突然の入院だったが、引き継ぎ、商談キャンセル・ピンチヒッター依頼が滞りなく進んでいる。それは「美しい仕事」を意識して、ブラックボックスを作らないように努めてきたからだ。

もちろん、職場環境が恵まれていることも大きい。業務が属人的ではなく、替えがきく体制が敷かれた職場は素晴らしい。メンバーの取り替えがきく会社は組織として理想的だ。

私は何について、どこまでは進めていて、どこから先が未着手で、誰に何を依頼しなければならなかったのか、ほとんど分かるようにしてある。

そんな私の仕事を巻き取ってくれる優秀な上司と優秀な同僚には感謝しかないし、円滑に対応してくれる優秀な取引先担当者にも本当に恵まれている。私はつくづく運が良い。

社内営業

とはいえ、普段からの業務態度は大切であり、この話の大前提なのは言うまでもない。何も聖人君子である必要はない。ただ「この人と一緒に働きたい」と思われるように、当たり前のことを当たり前のようにやるだけである。

"私が「一緒に働きたい」と思う人格"ではない。それではただ傲慢なだけだ。そうではなくて、あくまでも"その組織における最大公約数"を目指すだけのことだ。

若手に見せられる背中を

私もそろそろいい塩梅のミドルだ。見せるためにやるというわけでもないが、若手が道に迷ったときに、ひとつの指標になるような背中でありたい。参考にするかどうかは若手次第だが、見られても恥ずかしくない背中でいようと考えている。

ちょっとAI生成っぽい中年男性ロードバイク乗りのポエム

カーボンフレームにうっすら積もった埃を指先でなぞる。指の腹についた埃をぬぐう。

走行距離がアイデンティティだったこともあった。しかし今は子供の面倒と、終わりのないオンライン会議の準備が私の「心拍数」を決めている。

ロードバイクに乗ることは、自分を再確認する行為だった。しかし今は、ハンドルを握る代わりにキーボードを叩き、キッチンでフライパンを振る。

それが「正しい」ことだと、頭では理解している。家庭の平穏と、仕事の責任。その重力の下で、私は正しく地面に足をつけている。

「本当は、あそこにいるのに」と思う。

荒川の風。草の匂い。少年野球の声。はたまたZwiftの画面越しに見えるバーチャルな道。それらを諦めるたび、心の一部が削れていくような感覚がある。

だが、その「削れる痛み」こそが、今の私が生きている証拠だとも思う。自由を奪われたのでは決してない。私は生活のために自ら自由を「棚上げ」することを選んだ。その葛藤を抱えて職場へ向かう。

今はただ、この「乗れない時間」の重みを、ペダルを回す脚力に変えるための、長い長いヒルクライムの最中なのだと、自分に言い聞かせている。

それでいい。すべてを投げ打って走る情熱よりも、ままならない現実に踏み留まる今の自分を私は好きだ。

不整脈という名の「異音」を抱え、登り坂の途中で心臓が警告を鳴らす。無理はできない。かつての自分が低く見ていた「安全なペース」でしか、私は私を運べない。

職場でも、似たような景色が広がる。効率と成果、キラキラした横文字を操る準エリートたちの会話(ここはGoogleではない)。その輪から一歩引いたところで、私は自分の「役割」という名の重いギアを回している。

名門校を出てきた若手のスピードにはもうついていけない。いや、最初から追う必要などない。そもそも中年は孤独だ。本質的に孤独なのだ。

だが、その孤独は、ヒルクライムの終盤に訪れるあの「静寂」に似ている。周囲の喧騒が消え、聞こえるのは自分の荒い呼吸と、アスファルトを噛むタイヤの音だけ。誰とも競わず、誰にも期待されず、ただ「今、この一歩」を刻むこと。

「全盛期」という幻想を、ゴミ箱に放り出す。今の私にふさわしいのは、この「ままならない身体」で、たった一人、坂を登り続けるという事実だ。若い頃には見えなかった、道端の小さな石ころや、空の濁り。スピードを落としたからこそ、ようやく見えてきた景色がある。

メンタルを壊しかけた同僚。体の不調に悩む若手。痛みを知っている私だからこそできることがある。

それでいい。遅くても、不恰好でも、私はまだペダルを止めていない。この「孤独な強度」の自分が私は何より好きだ。

そう思うしかない。