やさぐれメモ

やさぐれたアラフォー男性の自由帳

ロードバイクの楽しみ方を思い出した

日中、仕事の合間に河川敷に出てみた。休日出勤という名の在宅勤務。義実家とのオンライン会議が予定されていたので、それに出ない私はその1時間をロードバイクで外出することにした。先日、ひさしぶりの実走がつまらなく感じた理由を知りたかった。考えたかった。

 

外は連休中で好天。荒サイは人が多かった。みはらし茶屋も大賑わいに見えた。こんな日に仕事をするなんて、とは思わない。この一年間、私はほぼ100%在宅勤務である。走ろうと思えば時間をひねり出していくらでも走れるのだ。いくらでもは言い過ぎか。

コロナウイルスの新型株は感染力が非常に高いと聞く。君子危うきに近寄らず。みはらし茶屋には寄らず、その手前を北に曲がって、初めて芝川サイクリングロードを進んでみることにした。


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結論から言うと1kmほどで引き返してきた。道幅が荒川に比べてずっと狭い上に、歩行者も自転車もたくさん行き交っていてろくに走れたものじゃない。普段ローラー台ばかりなこともあって強いストレス。人がいる時間帯に走るものじゃないな。(やっぱりZWIFT最高。)

 

以下はそのログで、驚きの内容だ。

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平均ワット数がなんと42。目を疑った。なんじゃこりゃ。NPは80Wを叩き出している。確かにつまらない。実際、走行中の私の腕に虫が羽を休ませようと止まりに来るレベルののんびりライドであった。

 

そして、つまらなく感じた本質はもっと別のところにあるとも思った。スピードだとかパワー値とかではなく、現実から逃げる気持ちが足りていないからだと思った。

今日のように何となく出るのではなくて、もっと強い衝動に突き動かされないとダメだ。洋室に一人で籠もって仕事をする、その息抜き的なノリでは楽しくない。

ここ数年、ロードバイクの実走の何が楽しかったかって、娘の世話や仕事や炊事洗濯掃除という各オペレーション、面倒臭いけれども親として、大人として、社会人としてやらなければならないことが山積みで、それらから逃げ出すために無理やりにでも午前3時過ぎに自宅をコソコソと抜け出して荒サイを彩湖から河口まで走って、夜が明ける前に何食わぬ顔でシレッと戻ってくる。

ボトルのドリンクがシャリシャリに凍って耳が千切れそうな真冬の午前4時過ぎに、新砂でゼリーを飲み、パワーバーをかじって独り悪態をつく。そして「荒川峠」と呼ばれるバキバキに冷えた北風に逆らって復路をひた走る。

もしくは草いきれの中を、数時間後には35℃を超えるであろう朝日をジリジリと背中に感じながら、娘が起きないうちに自宅まで一直線にペダルを回し続ける。それのなんと楽しかったことか。

 

誰もいない真っ暗な河川敷を無心になって、200Wで走り続ける。3時間でTSS200を稼ぎ出す。でもサイコンが表示する数字には固執しない。見るのは常に前方の路面。落車しないように。無事に帰宅できるように。それだけは注意しながら走る。この私が「嫌なことをすべて後ろに置き去りにして」、というポエムを浮かべるくらい楽しい。

私が思う実走の楽しさはそれだった。自転車競技アニメで若いクライマーが登坂しながら「俺、生きてる!」という、あれほどキラキラしていないけれども、きっと、あれに似た感覚なんだろう。

 

生きるのが辛い。いつも虚無感に苛まされる。辛いけれども、だけれども真っ暗な河川敷を疾走するその数時間だけは、あの真っ暗な河川敷を独り占めして全力疾走しているその時間だけは、自由だ。

信号も他の交通も無くて、1〜2時間ものあいだを時速30kmで走り続ける快感をあなたは知っているか?まるでサーキット。リアルぼっちZWIFTだ。

 

ロードバイクだと大転子の痛みが全く無い。ランの着地の衝撃が良くないのだろうか。昨春の緊急事態宣言以来、深夜の実走を控えてきたわけであるが、ランとロードバイクを(ZWIFTと実走とバランス良く)織り交ぜてみる。