やさぐれメモ

やさぐれた30代男性の自由帳

残業の思い出

何度見返しても44億円で変わらなかった。明日の役員会資料。日付はすでに変わり、時計は午前0時を回っている。

まだ集計が終わっていないのに、夕方のMTGで上司は財務担当役員に第1四半期の経費は総額42億で収まると報告した。役員はその場で社長に内線を入れた。漏れ伝わる声のトーンから、社長の安堵した様子が伺えた。経験豊かな上司の言い切りに、そのとき僕は愚かにも感心してしまっていた。

しかし現実は違った。
社内全部門から集めた金額は何度計算しても44億で、とても42億で収まる話にはならなかった。2億のオーバー。

「やさぐれさん、それは明日の役員会資料です。私は今日はもう帰りますが、数字がまとまるまで帰らないでください。ファイルはルールに従って日英併記で明朝、事務局に提出しておいてください」

耳を疑う上司の言葉が出たのは午後6時過ぎのことだった。それはまだ44億という現実が明らかになる前のことだった。

毎月の残業が100時間を超える上司は突如、帰ると言い出した。何があったのか分からないが、誰に対しても腰が低く温厚な上司は強めの口調で言い放つと、さっさと帰ってしまった。

それから小一時間して集計を終えた僕は、44億という数字に打ちのめされ、絶望感に苛まされた。

「どうすんだよ、これ」

日付が変わったオフィス。口に出して言ってみた。誰もいないオフィスは声が響くこともなく、何もなかったかのように静かなままだ。そして金額は44億で変わらない。

「明朝」まであと8時間。オフィスは静まり返っている。左腕の腕時計。秒針の音が、今なら聴こえるかもしれない。そう思って耳を澄ませたが、聴こえるような、聴こえないような。

ヴェルサーチの腕時計は前職の上司が餞別にくれたものだった。「それ30万くらいするからな」と前職の上司は嘯いていたが、気持ちよく送り出してくれることに感謝した、記念の品だ。しかし、腕時計を見つめていてもどうにもならない。どうする?

「どうすんだよ、これ!」
もう一度、声に出してみた。時計は0時半を回っている。

諦めよう。各部門が出してきた数字を勝手に変えるわけにはいかない。担当役員の承認を得て提出してきたのだ。その役員たちが揃う役員会に違う数字を出すわけにはいかない。現実は44億なのだ。

意を決して、計算ファイルから役員会資料に転記する。部門を間違えないように、慎重に。ミスるのはこういうときだ。最後にヘッダーの英語を確認して、僕は事務局に送信した。後は野となれ山となれ。もう眠かった。奥さんのもとに帰りたかった。誰かの命がかかってるわけじゃない。上司と一緒に頭を下げればすむ話だ。明日は明日の風が吹く


翌日。
役員会後、ある役員からメールがきた。心拍数が跳ね上がったが、英語のスペルミスを指摘してくれたのだった。やはりミスがあった。だけど、それだけだった。上司も特段変わった様子はなかった。財務担当役員がうまく切り抜けた?しかし向こうから何も言ってこないのだから、わざわざ確認することはない。やぶ蛇だ。そして今日も日が暮れて、オフィスは人がまばらになった。

何とはなしに送付ファイルを開いてみて、息を飲んだ。総合計は42億のままだった。転記する際にTotalの行だけ更新し忘れていた。そうだ、役員会資料は最初は仮の金額を入れていたんだった。合計額だけそのまま残して送ってしまったらしい。合計を確認しなかったなんて!各部門だけ転記して、総合計は見もしなかったなんて!

小計の和と総合計が一致しないパラドクスに誰も気が付かなかったのだろう。役員はみんな自分の管轄だけ見て、社長は総合計を見ていた、とか。

考えてみればA3タテの資料は60以上の部門と、十数人の担当役員小計がある。それに議題はほかにもたくさんあるのだ。いちいち電卓を入れる役員なんかいないだろう。

ふわっと身体が軽くなった気がした。

上司を恨む気持ちはあまりなくて、「どうすんだよ」一色だった。ただ、人のせいにすると楽なものだと、そのとき強く思った。人のせいにしているうちは、まだアマチュア。